2012年5月4日金曜日

PHS人間:ネット「社会」を活きぬく疎外力




最近、「疎外力」というのが自分の中で1つのキーワードになりつつある。「疎外力」とは、自分自身を物事の中心から強制的に離れさせる力のことを意味する。今後私達が※ネット「社会」を活きぬくためには「稀少性」 「独自知識」 「ストロングタイズ」 「ネット「社会」の再認識」が必要であると認識しているが、これらを得るために必要不可欠な力だと思うからだ。

「稀少性」

稀少であるということは、それ自体個性的であり、個性は個人で活きる社会には必要不可欠である。しかし、この確保をSNS、Social Mediaを含むネットで達成することは最早難しく、新しい露出方法が必要となりつつある。

ご存知の通りネットは、従来の社会的境界線を溶解し、簡単に会いたい人とコンタクトが取れ、自分の意見や活動をより手軽に公表することを可能にした。これは画期的なことであったし、この社会で暮らす人々個々人の稀少性は際立っていた。ただし、大衆化しつつある現在の状況ではこれからはこのツールを使えば使うほど、反比例し個人の稀少性は徐々に埋没するだろう。

影響力拡大のために露出するというベクトルに皆が向かい始めた結果である。

今後稀少性を確保するために、あえて露出を最低限に制限しつつ、ふらっと不特定な場所から表現をし、特定の人のみコンタクトが可能な状態を創ることだろう。何かよくわからないけど、どっかにいて、時々面白い噂を聞くくらいの状態が結果として違うベクトルに導く。ネット「社会」に属しすぎないことが活きることに必要な稀少性を担保となる。(社会と個人の関係変化については次回に)

「独自知識」

情報化社会において、Googleにカバーできるような上辺だけの知識は意味がなく、独自知識が重要となってくる。それこそが価値を創造するからだ。では独自の知識とは何か?実践(経験)と理論の絶え間ない螺旋階段である。独自で考え行動し、読書や孤独な時間により再構成する。この空間にネットが寄与する部分は少なくなりつつある。誰でも見られる乱雑な情報というものを人間は理解しづらいし、思考的一貫性をネットの中で得ることは難しい。

「ストロングタイズ」

最後の最後に頼れる、何も言わずに一生懸命助けてくれる人は、フォロワーやファンよりもよっぽど貴重である。特に社会に頼ることが難しくなった現在この精神的支えは大きい。面と向かって50人くらいと同じ時間、空間を共有することがネット上の情報交換よりもよほど大事だ。

「ネット「社会」の再認識」

好みにかかわらず、ネットが社会構造の中心を担っていく時代は迫りつつある。言論と活動を行えうる公的領域として期待されたネットが、最早その地点を超え、急激に社会性を帯びてきているからだ。(Timelineから視るFacebookの未来)その再認識は、現代というラビリンスを認知する唯一の手段であり、活きる希望にもなるので必要不可欠だ。l例えば、社会保障システムは、誰が誰に実行するものなのか、そもそも誰かが実行するものなのか等も視えてくるかもしれない。

ただしこれが中々難しい。そもそも組み込まれた個人は内部的思考性に陥る傾向にある。ネット「社会」が存在しているかどうかさえ気づくことはままならない。そこでひとつの手段としては、システムからの意識的な離脱による俯瞰的観察の確保だろう。要はネットから離れるということである。そうすることにより思想的な深みを得られる可能性は増すだろう。

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上述したようにこの4つのポイントを得るためには、自分自身を物事の中心から強制的に離れさせる必要があるのだが、一方で余り離れすぎてしまうことも良くない。ここでは適度な「疎外力」が必要なのである。そこで疎外するための手段の一つとしてPHSだけで生きていくなどが面白いと思う。

繋がることを強制するPCとスマフォは放棄し、日本・世界各地の様々な分野の友人50人程度の連絡先のみを確保する。創造のための孤独空間・時間とともに実践的場所、宿泊の確保は各地に点在させる。もちろんBlogの執筆や人の紹介等は大切にしたいので、会ったり泊まったりした人のPC、スマフォをシェアしてもらう。そうすることでネットから隔離しつつも表現の場所は確保することができる。

ある程度ネットワークがある人は、PHS人間になって「活動」することは、中々意義がありそうだ。

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疎外力を持とう。

※ネット「社会」とはSNS、Social Media等の浸透により、リアルとネットの垣根が無くなる新しい社会形態。もちろん社会である以上、根本的な構造変化は無いが。

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