ここ数年疑問がある。「私は日本人なのか」と。
海外ではじめて会った人に自己紹介をする際によく最初に「私は日本人です」と話す。しかし、すぐ頭にクエスチョンマークが浮かぶ。「ちょっと待てよ、何で俺、自分のことを日本人って説明しているんだ」と。仮に日本人たりえる人が日本語を話し、日本の価値観を共有し日本を発展させたいと願う人であれば、私は日本人ではないかもしれない。英語や中国語を話す機会の方が最近は多いし、海外生活も長い。日本の価値観という曖昧なものよりは、同じ情報・空間を共有した同年代の世界の若者とのほうがよっぽど価値観を共有している。
だが、私はまだ「日本人です」と言う。それは何故か、たぶん日本人だということにまだ価値があるからだと思う。何故なら日本人というだけで、相手はいい印象を抱くし、興味をいだいてくれる。また経済活動(ビジネス等)や安全保障(パスポートや外国での安全)の面からも日本人には価値がある。
想像の共同体から価値観の共同体へ
ただ私は、国民国家という想像の共同体から価値観の共同体へと移行していく中でこの「日本人です」という価値は薄れていくし、もはや言う必要もなくなるだろうと思う。それよりも自分自身の価値観の方がよっぽど重要な価値を持つだろう。
国民国家形成における主要因が何かについては、まだ解明できない点があると思うが、その形成過程或いは形成後に、経済発展・安全保障を目的とし、国家が手段として国民的価値観を創りあげたことについては否定出来ないだろう。私が国民国家を想像の共同体と呼ぶのは正にこの意味においてである。
確かにこの共同体は私たちを日本人たらしめ、また多くの利益を与えてくれた。共通の言語を話し、高水準の教育を受け、同じような信念を持つことは規模の経済において重要であり、また安全保障の面でも重要であった。ただこの想像の共同体が今後続いていくとはどうも思えない。
何故なら、現在この価値観というものそれ自体が主体性を持ち、強力な目的(手段)になるような共同体の再形成がゆっくり、しかし着実に進んでいるように思われるからだ。
もし価値観に焦点を置くならば、自国の異なった年代、職業或いは、場所に住む人たちとよりも、世界(自国も含)の同じような年代・考えを持った人に共感を抱くことが多いだろう。特に、FacebookやSkypeなどネットは、考えの共有を促しているし、また今後はそこに主眼をおいた興味分野を検索するサービスが伸び、協働プロジェクト等の機会も急速に増えるだろう。
この加速度的な進展は一方で、ある共通語(英語or中国語or・・・)を駆使し、価値を共有する緩やかなグループの形成を促し、他方で、共通の価値観を創り上げてきた国民国家的な概念を剥がすことになるだろう。自国の価値観が違う人と交わる機会は益々少なり、経済的には自国に依存しなくなり、またバーチャル・リアルを問わず、様々な場所に移動することも可能となる世界では、。もはや自分が○○人だということ自体に価値はなくなり、どのような考えを持って、何をしてきた・したいのかのほうがはるかに重要になるのだから。
この状態が更に進むと、緩やかな共通ルール・価値観を持ち、衣食住を確保できる価値観の共同体が形成される。
新しいシステムは人間を必要とするのか
もちろん何かが形成されるときには問題は生じる。この共同体では、特に内外の治安が問題となるだろう。この緩やかな共同体でどのように治安を維持するのか、価値観の共同体間で、今まで国民国家間で起こってきた対立をどのように予防するのかなどである。
「共同体内の治安」に関しては、今後、バーチャルとリアルの相互浸透が更に進み、監視社会が強化されることにより、ある程度解決されるだろう。例えば、何か事件(バーチャルとリアルで)が起きたら、自動的にネット上にすぐ場所や情報がのり、追跡するサービスなどは今後拡充されるだろうし。
「共同体間の対立」は、対策として、技術革新により可能になったバーチャル・リアルでの人々の流動性を一層促し、共同体内外の感覚を薄れさせるシステムを確立することにより、和らげられると思う。人々がそれぞれ、常に変わる価値観に対応し、共同体間を流動的に移動し、その時々に人々の自由と義務(コストや法の順守)も移動する。そうすることにより、所属は一時なものとなり、固定化した価値観の中の対立は行われにくくなる。
技術革新と流動化を促すような統治システムというのは、キーワードのような気がする。
しかし、そもそも統治システムというもの自体安定を望む装置であり、このような不安定と思われている状況を促すことが出来るのか、これ以外にあると思われる統治のための重要な要因をどのように法律で確立し、人々の自由を確保するのか、更に重要なことにこの複雑化した社会を誰が統治するのかは、全く見えてこない。
もしかしたら、従来の統治システムという概念を超えた新たな概念が現れ、人ではない何かがそれを成すかもしれない。(ここに落ち着いてしまうところに私の脳みその限界があるのだが、この点については今後追求していきたいと思う。)
この恐ろしくも面白い時代が足音を立てて忍び寄ってくる。
さて、私たちは何人たりえるのか。