2011年7月23日土曜日

想像の共同体から価値観の共同体へ

ここ数年疑問がある。「私は日本人なのか」と。

海外ではじめて会った人に自己紹介をする際によく最初に「私は日本人です」と話す。しかし、すぐ頭にクエスチョンマークが浮かぶ。「ちょっと待てよ、何で俺、自分のことを日本人って説明しているんだ」と。仮に日本人たりえる人が日本語を話し、日本の価値観を共有し日本を発展させたいと願う人であれば、私は日本人ではないかもしれない。英語や中国語を話す機会の方が最近は多いし、海外生活も長い。日本の価値観という曖昧なものよりは、同じ情報・空間を共有した同年代の世界の若者とのほうがよっぽど価値観を共有している。

だが、私はまだ「日本人です」と言う。それは何故か、たぶん日本人だということにまだ価値があるからだと思う。何故なら日本人というだけで、相手はいい印象を抱くし、興味をいだいてくれる。また経済活動(ビジネス等)や安全保障(パスポートや外国での安全)の面からも日本人には価値がある。

想像の共同体から価値観の共同体へ

ただ私は、国民国家という想像の共同体から価値観の共同体へと移行していく中でこの日本人です」という価値は薄れていくし、もはや言う必要もなくなるだろうと思う。それよりも自分自身の価値観の方がよっぽど重要な価値を持つだろう。

国民国家形成における主要因が何かについては、まだ解明できない点があると思うが、その形成過程或いは形成後に、経済発展・安全保障を目的とし、国家が手段として国民的価値観を創りあげたことについては否定出来ないだろう。私が国民国家を想像の共同体と呼ぶのは正にこの意味においてである。

確かにこの共同体は私たちを日本人たらしめ、また多くの利益を与えてくれた。共通の言語を話し、高水準の教育を受け、同じような信念を持つことは規模の経済において重要であり、また安全保障の面でも重要であった。ただこの想像の共同体が今後続いていくとはどうも思えない。

何故なら、現在この価値観というものそれ自体が主体性を持ち、強力な目的(手段)になるような共同体の再形成がゆっくり、しかし着実に進んでいるように思われるからだ。

もし価値観に焦点を置くならば、自国の異なった年代、職業或いは、場所に住む人たちとよりも、世界(自国も含)の同じような年代・考えを持った人に共感を抱くことが多いだろう。特に、FacebookSkypeなどネットは、考えの共有を促しているし、また今後はそこに主眼をおいた興味分野を検索するサービスが伸び、協働プロジェクト等の機会も急速に増えるだろう。

この加速度的な進展は一方で、ある共通語(英語or中国語or・・・)を駆使し、価値を共有する緩やかなグループの形成を促し、他方で、共通の価値観を創り上げてきた国民国家的な概念を剥がすことになるだろう。自国の価値観が違う人と交わる機会は益々少なり、経済的には自国に依存しなくなり、またバーチャル・リアルを問わず、様々な場所に移動することも可能となる世界では、。もはや自分が○○人だということ自体に価値はなくなり、どのような考えを持って、何をしてきた・したいのかのほうがはるかに重要になるのだから。

この状態が更に進むと、緩やかな共通ルール・価値観を持ち、衣食住を確保できる価値観の共同体が形成される。

新しいシステムは人間を必要とするのか

もちろん何かが形成されるときには問題は生じる。この共同体では、特に内外の治安が問題となるだろう。この緩やかな共同体でどのように治安を維持するのか、価値観の共同体間で、今まで国民国家間で起こってきた対立をどのように予防するのかなどである。

「共同体内の治安」に関しては、今後、バーチャルとリアルの相互浸透が更に進み、監視社会が強化されることにより、ある程度解決されるだろう。例えば、何か事件(バーチャルとリアルで)が起きたら、自動的にネット上にすぐ場所や情報がのり、追跡するサービスなどは今後拡充されるだろうし。

共同体間の対立」は、対策として、技術革新により可能になったバーチャル・リアルでの人々の流動性を一層促し、共同体内外の感覚を薄れさせるシステムを確立することにより、和らげられると思う。人々がそれぞれ、常に変わる価値観に対応し、共同体間を流動的に移動し、その時々に人々の自由と義務(コストや法の順守)も移動する。そうすることにより、所属は一時なものとなり、固定化した価値観の中の対立は行われにくくなる。

技術革新と流動化を促すような統治システムというのは、キーワードのような気がする。

しかし、そもそも統治システムというもの自体安定を望む装置であり、このような不安定と思われている状況を促すことが出来るのか、これ以外にあると思われる統治のための重要な要因をどのように法律で確立し、人々の自由を確保するのか、更に重要なことにこの複雑化した社会を誰が統治するのかは、全く見えてこない。

もしかしたら、従来の統治システムという概念を超えた新たな概念が現れ、人ではない何かがそれを成すかもしれない。(ここに落ち着いてしまうところに私の脳みその限界があるのだが、この点については今後追求していきたいと思う。)

この恐ろしくも面白い時代が足音を立てて忍び寄ってくる。

さて、私たちは何人たりえるのか。


2011年7月20日水曜日

大都市農民工のソーシャルメディア使用による権利主張と行政府の対応

今回、中国訪問目的の一つは、「大都市農民工のソーシャルメディア使用による権利主張と行政府の対応」という大学院研究テーマを深化すること。

よくマニアックだなぁ(笑)っと言われるのだが、個人的には、中国だけでなく、世界的にみても新しい政治-社会システムを考える上で面白いテーマだと思う。世界でも有数の情報統制力、統治能力を持つ中国が、農民工(出稼ぎ労働者)のソーシャルメディア使用による情報交換・発信に柔軟と強行をどのように織り交ぜ対応し、体制を維持していくか(或いは、崩壊への序章へ導くか)は、社会統治方法について、世界に対して何か示唆を与えてくれるだろうから。

特に、25000万人いると言われ、自己権利のためにソーシャルメディアを駆使しつつある大都市の農民工が、今後3Gモバイル(現在13000円程度)を持ち、様々な場所で使い始めたときの、中央の対応及び中央-地方-社会集団の関係性がどのように変化するのかは興味深い。

中国の不満層は大都市の農民工?

近年、ソーシャルメディアを使い、社会システムを変えようという動きは加速している。
エジプトのFacebook革命からの一連のアラブ諸国での動きはしかり、先日はマレーシアで、政府に対する抗議デモが起こった。ソーシャルメディアはこれらの出来事に対して主要な役割を担った。統制されないメディアで人々に多くの情報を共有し、行動を促したのだから。(政府の武器の破壊)

ただ見逃してはいけないこととして、結局重要なのは、相当程度存在する利益を侵害されていると感じる人のみが実際に行動するということである。いくら、ネット上で不満を上げていても、実際に行動をする人は利害がある人だけである。

中国で一番利益を侵害されていると感じている人はだれであろう。私は特に大都市にいる農民工だと考える。彼らは、大都市に出てきて、はじめて給料の格差を現実として認識する。また企業によっては福利厚生が整備されていることも少なく、そもそも正式な契約を結ぶことも多くない。病気になったら、突然解雇されることもある。また教育や医療が優遇される都市戸籍に変えたくても基本的には変えられず、(1人変えるごとに100万円ほど費用がかかると言われているので、計250兆の費用)これに加えて、差別も存在し、不満がたまる。

もちろん、他の層の人々も共産党政権に不満はあると思う。ただ、なにか行動を起こそうというほどではないと思う。例えば、中流階級層以上の人は自分たちの経済活動のためにも、政治の安定を求めるだろうし、むしろ政権がひっくり返されて、低所得者に利権を取られるほうが怖いだろう。農民も不満はあるが、格差を実際に「認識」する機会は少ない。不満を持っているという点では、蟻族(大卒ニート)の問題も深刻だが、国民的な同情は受けにくいだろう。就職先が無いわけではないのだから。

ソーシャルメディアと3Gモバイル

この不満を持った農民工にとって現在重要なツールになりつつあるのがソーシャルメディアである。突発的な事件(差別や労働条件から来る不満、明らかな過失)が起こったら、モバイルを使って、情報を瞬時に広げ、時には、知識人・NGO等と連携しながら、素早く上級政府に訴えることができるからである。中国では世論を味方に付け、上級政府に訴えることが権利を勝ち取る唯一の方法なのだから。

このような状況は増えつつあるのだが、今後Gモバイルユーザーが農民工の中でも加速度的に増えたらどうなるのだろうか。

ネット上で更に結社のようなものが進むかもしれないし、更なる訴えが上がってくるかもしれない。(集合行為論的には集合財の獲得は難しそうようにも思えるが)

それに対し、中央はどのように対応していくのだろうか。非常に興味深い。