2011年8月6日土曜日

可視化社会で、サンドバックにならないためには


最近、出現しつつある可視化社会の中で、コツコツ活きていくことって難しいなと思う。色んな人の行動・思考・情報やサービスが視えるようになってきて、同時に自分自身が視えなくなってきてるから。だからこそ重要でもあるんだけどさ。

特にこの数ヵ月、次から次へと押し寄せる情報の波に自分の信念がたえず不安定化しているような気がする。ボクサーに殴られているサンドバックのような状態。

実際に知人・友人がいろんなことを実現しつつあるのを観て、もちろん嬉しいんだけど、ちょっと焦りも感じる。そしてそのたび心の砂がゆらゆらと揺れ始める。

僕の場合、東京でこの状態が特に顕著になる。外から支えてくれるものを認識しづらかったり、同質性の強要を感じるからかな。

この見えない足音には、たまに嫌気がさすのだが、対応せざるを得ない。

「発展」という美酒は、好みに関わらず、人を演技の舞台へ押し上げる。その緊張と快感の輪廻転生を止めることなど不可能に近い。滴の不足が争いを導くという無意識の刷り込みは更なる潤いを希求する。

今後、このような可視化社会の「発展」の中で、独自の信念とそれへの支持を持たない人は活きていくことが難しくなるだろう。(僕は、人生にリミットをあまり感じてないので若干楽だが)両方を持つ人の影響から逃れるすべが無く、常にフックをくらったような状態になってしまうから。

ではどちらを強化していくかは、ニワトリとたまごの議論になってしまうので、なんとも言えないが、
どちらが強化しやすいかは、独自の信念だと思う。何らかの支持を得ようと考えても、何からはじめていいかわからず、結局迷子になってしまうことが多い。

この独自の信念は、自身の知識(情報・経験・環境・習慣・能力等)から出された決断(最良だという認識の有無に関わらず)を毎日コツコツ実行し、知識がアップデートされることにより強化される。

その「巡礼」ともいうべき巡りゆく行為が、自分自身を信じるにたるものと認識させる。それはまた、無数の支持という形でおもてに現れるだろうし、それがまた新たに信念を強化する。

逆説的ではあるが、加速度的な時代だからこそ一層の蓄積が要求される。この意味で自分が信じたことをコツコツやることが一番の近道となるだろう。


引用元:自分の文章。ただ今の「自分」には書けない文章。

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